鬼才の画人 谷中安規展 1930年代の夢と現実 みどころ

展示構成 ※都合により変更になる場合があります。

  • Ⅰ 1920年代 「腐ったはらわた」

    1926年、谷中安規は描きためた素描を持って版画家永瀬義郎を訪ねました。
    永瀬は、その著作が版画制作のきっかけとなった、谷中にとって重要な人物です。このとき谷中は、人間の性さがをあからさまに描き出す、エロティックでグロテスクな自らの作品群を自虐的に「腐ったはらわた」と呼んだといいます。 退廃的な作品は、関東大震災直後の東京で活動した前衛美術家のグループ、「マヴォ」のメンバーが制作した、陰惨で暴力的な作品と親和性があります。 谷中を含め混沌とした時代に青年期を迎えた芸術家達は、大きな転換期を迎えた1920年代という時代への感情を作品中にあらわしているといえます。

    鬼才の画人 谷中安規展 1930年代の夢と現実 みどころ

    《妄想F》1925年頃 木版 飯田市美術博物館 (日夏耿之介記念館)蔵

  • Ⅱ 1928-31年 サロメからロボットまで

    1928年、谷中安規は日本創作版画協会展やデッサン社展覧会への出品、小説の挿絵や本の装幀を通し、画家・版画家として社会に飛び出していきました。
    1931年には、創立したての日本版画協会の会員となり、さらに国画会展や新興版画展にも出品し、キャリアを積んでいきます。この時期には、民話や神話、伝説、仏典に想を得たと思われる物語的版画や、仏のような女性像を都市空間に登場させた奇怪な版画を制作しています。中でも聖書に登場する、洗礼者ヨハネの首を求めたサロメのエピソードを想起させる作品が多くみられます。
    また、1931年にブームが頂点に達したといわれる、ロボットのイメージも版画にあらわしました。

    鬼才の画人 谷中安規展 1930年代の夢と現実 みどころ

    《女の顔》1931年頃 木版 兵庫県立美術館蔵

  • Ⅲ 1932年 光と影の空間演出

    創作活動も軌道に乗り、この年、谷中は多くの版画を制作・発表しています。
    主要な舞台となったのが、料治熊太編集発行の版画誌『白と黒』と『版藝術』でした。
    昔話や伝説に登場する獣人やお化けを奇怪かつユーモラスに表した作品、スクリーンの光で浮き上がる映画館内、少年時代を回想した作品など、さまざまな内容の木版画を寄せています。
    また、表現主義の映画「カリガリ博士」に強い影響を受けた谷中は、ゆがみや明暗を誇張する手法を取り入れ、光と影の構成による空間の表出を目指します。

    鬼才の画人 谷中安規展 1930年代の夢と現実 みどころ

    《自転車 A》1932年 木版 個人蔵

  • Ⅳ 1933年 土着と幻想のモダニズム

    関東大震災から復興を遂げた新しい都市東京は、谷中のイマジネーションを刺激する絶好の舞台となりました。建築物が作り出す直線的空間、映画やカフェといった文化、機械文明や政治・軍事的出来事、社会をにぎわす刑事事件への関心が、モダンな形態や情景のモンタージュによって隠喩的に作品に散りばめられます。
    しかし谷中作品の特徴は、都市のイメージが昔話や伝説、仏典、幼少期の記憶に由来するイメージと錯綜して共存し、幻想性な作品を生み出している点にあるでしょう。
    モダンと土俗性が溶け合った版画は、それゆえにきわめて独創的な、新しいモダニズム作品として歴史に刻まれたといえます。 1933年はこのような作品が多く制作された、実りの多い年でした。

    鬼才の画人 谷中安規展 1930年代の夢と現実 みどころ

    《瞑想氏》(『白と黒』41号)1933年 木版 個人蔵

  • Ⅴ 1934年 内なる心の世界へ

    1934年1月、暗がりのなかで明かりに照らされた民衆が、プロペラをつけ鳥の羽を広げた飛行体を見上げている版画《怪鳥》を発表します。
    上海事変勃発で戦時色がただよい、国際連盟から脱退して国際社会から孤立していった、不穏な日本社会を思わせる作品です。

    一方『こころの花』連作では、幼い頃の母との思い出や、いまの自分の姿とその分身と思われる蝶、可憐な花や大きく見開かれた目などを暗黒世界に浮き上がらせ、内なる心の世界へと意識を傾けています。
    内田百閒の童話『王様の背中』の挿絵で高い評価を得たのもこの年のことです。

    鬼才の画人 谷中安規展 1930年代の夢と現実 みどころ

    《怪鳥》(『白と黒』43号)1934年 木版 兵庫県立美術館蔵

  • Ⅵ 1935-9年 「夢の実体」を探して

    1934年頃から内なる世界へと向かい始めた谷中は、昭和10年代(1935年~)にはその傾向をさらに強め、天使やこども、女性が動物や鳥などと戯れる、お伽噺や桃源郷のような世界を描き出すようになります。それは2・26事件を経て日中戦争がはじまり、戦時体制が強化されていく日本の状況と無縁とはいえません。
    閉塞感が強まる現実社会に興味のあるモティーフを見つけることができず、こころの中に真理――谷中のいう「夢の実体」を探し求めているためだと考えられるからです。お伽噺のようなイメージは、現実社会の逆説的反映といえるでしょう。

    鬼才の画人 谷中安規展 1930年代の夢と現実 みどころ

    《童子騎象図》1937年頃 木版 個人蔵

  • Ⅶ 1940-46年 虚空にあそぶ

    アジア・太平洋戦争がはじまる前年から死去する年まで、谷中はわずかの版画しか制作していません。そのうちの何点かには、彼岸のイメージを読み取ることができ、求めていた表現の在りかをうかがわせます。

    この時期の谷中はもはや、現世と来世も区別することなく、何も妨げるもののない虚空に遊んでいるようです。

    それは自らの精神的な平安とともに、普遍的な真実を求めるこころの衝動であったといえるでしょう。

    鬼才の画人 谷中安規展 1930年代の夢と現実 みどころ

    《若き文殊と友達》1940年頃 木版、手彩色 個人蔵

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